ビルマ族で有名なパガン王国確立以前、タイ、ビルマ両国のモン族はラマニャ連合として政治的に組織化され、ハリプンジャヤ、タトン、ドワラヴァティの3王国はその中に属していました。8世紀モン王国はインド人との貿易・商業の安定した良い関係を拡張し、その拡張は瞬時にして革命的なもので、平和的でした。インド人の商人と船乗りは征服者、植民地開拓者ではなく友人としてタトンにやって来たのです。モン族は、インド文化を受け入れて、文明を発展させました。
モン族以降の人々が、ビルマにやって来たのは、北方からのチベット‐ビルマ系民族といわれております。モン族は未熟なビルマ族の王国が生き延び、発展するのを不承不承ながらも認め、その過程においてチベット‐ビルマ諸族の主導権はビルマ族に渡り、紀元849年、独自の都市パガンが創建されたのです。1044年ビルマ王、アノーヤターがパガンの玉座につきました。彼は権力と影響力を強化した後、1057年タトンのテーラヴァーダ仏教を信仰するモン族を征服したのです。平和裏ではなく武力による統合でした。征服はパガンの経済と文化、両方の基礎となり、タトンで捕らえられたモン族の工芸家、職人、建築技師、金細工師、木工彫刻家らは、技術と芸術をビルマ族に教えるためにパガンに連れて行かれました。モン族僧侶と学者はビルマ語、パーリ語、仏教経典を教え、ビルマ族はすぐに彼ら自身の学者を育て、パガンはテーラヴァーダ仏教を学ぶ中心地となったのです。
1287年パガンはモンゴル、フビライ・ハーンの軍隊によって陥落されました。パガン陥落の後、下ビルマのモン族は統合を強化し独自の王国を復活させたのです。その王国は、モールメン近くのマルタバンで樹立され、ワレル王によって統治されました。その後、首都は1365年にペグーに遷都されたのです。モン族は賢明な統治者のもとで、再び黄金の時代を向かえ、それは1533年まで続きました。一世紀半の黄金時代の間、ペグーのハンタワディー王朝はビルマの人々にも愛される、多くの金字塔を打ちたてた統治者を輩出しました。
1531年、タビンシュウェティーがタウングーのビルマ族の王となり、2〜3年の内に下ビルマのモン族を征服して、ペグーに都を作ったのです。彼の死後に、義理の弟バインナウンは、シャン高原とタイの一部を占領し第二のビルマ族帝国を確立したのです。
王国の都は上ビルマのアヴァに遷され衰退しました。1740年モン族は独立を宣言して、ペグー(ハンタワディー)に王国を再建したのです。1752年、ビルマ族の都アヴァはモン族に破れ、ビルマのほとんどの所がモン族の統治となったのです。
アラウンパヤー王として有名なビルマ族の指導者ウー・アウンゼヤは、モン族をアヴァ、上ビルマから追い払い、他の失った領土も回復しました。1757年までに彼はモン族を破り、モン王国ハンタワディーを併合し、これ以来ずっと、モン族は母国なき人々となったのです。征服者ビルマ族の指導者ウー・アウンゼヤは、3,000人以上の学識ある僧侶をラングーンの近くで大虐殺し、神聖なる経典、僧院を焼き払い、モン語とモン文学を禁止して、数千人のモン族を砦の柵で焼き殺す大量殺戮を行い、モン族を迫害しました。民族差別ははびこり、何十万人ものモン族が、安全な避難場所を求めてシャム(タイ)に逃れたのです。
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